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~団長コラム~
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『げんこつ団』-演技スタイル。

TABAKO.gif

さてさて、団員紹介は、
団員の皆に書いてもらっている団員プロフィールがまだ集まっておりませぬ故、
ここでまたちょいと、別の記事を書きます。

えっと前記事の“ナンセンス喜劇”では、主に脚本的な事を書きましたので、
ここでいっちょ、げんこつ団の演技スタイルについて書いておきます。

前にもちょいちょい書きましたが、げんこつ団は女性のみで、老若男女+色々な性格の登場人物を、
入れ代わり立ち代わり、演じていきます。
また、女性のみであるのに、いや女性のみであるからこそ、
必要な分だけの誇張をおこないつつ、そこにリアリティを求めます。

そのように、たとえ女がやるオヤジであっても可能な限りのリアリティを求めるのは、
前に書いた“女性のみである事がすでに世の中のパロディであるからこそ”という理由だけに留まらず、
実は何より何より、げんこつ団の脚本が、“ナンセンス”なものであるからこその事であったりもします。

げんこつ団のナンセンスさは、家庭なら家庭、会社なら会社、
その場所とそこに居る人々が、まずそこで普通に生活していてこそ、成り立つし、馬鹿馬鹿しいのです。
とんでもない設定や普通ではない設定を、あくまでも普通な事として受け入れ、
そこで皆、至極真面目に懸命に、生きていたり。或いは、そういう社会であったり。
或いはとんでもなくなっていったり普通ではなくなっていく展開に出会っても、
それに対してあくまでも真剣に、反応したり。或いは受け入れていったり。
そういった人物でシーンが構成されている程、その馬鹿馬鹿しさは際立ちます。

例えば分かりやすく言うと、馬鹿馬鹿しい事をふざけた演技で表現し、受け手がそれに驚きちゃかしたり、
或いは、馬鹿馬鹿しい事を単に面白おかしく表現する事は、げんこつ団ではタブーです。
それだとそれだけで、ネタが終わってしまうからです。
“おかしな人がおかしな事をした”という所に、留まってしまうからです。
よってげんこつ団においては、例えば極端な役柄である、
“インコ部長”も“マイム省マイム局の局員”も“プリンス達”も、
彼らは彼らで、大真面目に生きているのです。
彼らはそういう生き物であったりそういう仕事であったりそういう生い立ちを背負って、
至極真面目に、生きているのです。

さてそういう演技スタイルを取ると、
脚本においての飛躍が、思う存分、可能になります。
1つの馬鹿馬鹿しさが、彼らにとって普通の事であれば、
更にそこに別の設定や展開を課していく事が可能になり、
また、設定や展開がどんなに有り得ない事であっても、いや、有り得ないものである程、
登場人物の真面目さが、その馬鹿馬鹿しさを引き立たせていきます。相乗効果が働きます。
よって、自由に脚本の飛躍の幅を広げられます。

と。そんな風に、げんこつ団は考えております。

またげんこつ団では、一人何役もこなしながら、尚且つ、
前のシーンに出て来た登場人物が、普通に後のシーンでも出てきたりします。
つまり、一人の役者が“何の役をやっても同じ感じ”になってしまうと、それが全く成立しなくなってしまいます。
何が何やら分からなくなってしまいます。
そこで、役者自身よりも、いや“役者自身”などと言うものは見えなくなって、
それよりなにより、シーンシーンの登場人物が、グッと前に出なくてはなりません。

そこで、げんこつ団の演技スタイルは、
“役を掴んでそれを自分に近づける”のではなく、
“役を作ってそれに自分が近づく”という手法を取ります。
中年男性であれ中年女性であれギャルであれオタクであれ何であれ、
“こういう人物”という、脚本上必要とされる役柄に、なる。単純明快です。
“なる”事が必要です。そうでないと、シーンが成立しません。

役者自身の個性や特徴は、そこでは邪魔になります。障害です。
役に“なる”時には、それは完全に消し去らねばなりません。
そのように、役者に対し“自分自身の個性を消せ”というのは、もしかしたら、
ある種の芝居におけるある種の役者には、命を切られる事なのかもしれません。
ただ、役の幅、引き出しの数は、その分多くなります。
また、必要とされるものに“なれる”という事は、まず基本だとも思います。
実際、自身の持ち味やキャラクターが必要な芝居に出たり、
或いは、そういったものを武器とする場合があっても、
まず“他の役が広く出来る”という前提の上でなければ、
結局どこかで、必要とされなくなってしまうでしょう。
また、自分の“役者としての個性”などというものは、
自分で限定してしまえば、そこで終わりでもあります。
とか、思います。話が反れました。

さて、自分と全く違う、性格、性別、性質の役に“なる”という事、
しかもそのバリエーションを、無限に広げていく、という事は、なかなか一朝一夕にはいかないものです。
ただ、コツがあります。
重要なのは、想像力と、自分のもともとの見え方やテンポやクセを理解し意識し客観視しておく事です。
想像力を欠いてしまったり、想像したものがブレてしまうと、役が崩れます。
その人物の、笑い方泣き方驚き方普通の時の顔、声、身体付き、身体の動かし方、
テンポ、クセ、思考回路、生活スタイル、などなどなどの想像力を、常にキープする。
そしてその想像上のものを、自分の身体を使って常に表現し続ける事が大事です。
黙っている時にも。止まっている時にも。むしろそうした時にこそ。
また、自分のもともとの体型や声質を理解し、その自分がどれだけそれに近づけるか、
どうすれば近づく事が出来るかを、試行錯誤してみる事が大事です。

また、自分と掛け離れた役を演じる時には、時に大胆な形態模写が必要です。
ただ、それがオーバーな形態模写に留まらないようにしなければいけません。
いわゆる“やってます”という所が見えてしまう演技は、げんこつ団ではタブーです。
それ自体が、“おかしな事”になってしまってはいけません。
そのために必要なのは、いわゆる、演劇をやる上でちょいちょい出てくる、
内面を作るだとか、まあ、そういう事なのかもしれません。
しかし決して、理屈じゃありません。頭ばかり働かせてもダメ。しかし身体ばかり使ってもダメ。
両方同時に使ってこその事であり、また、両方同時に使いつつ、
観ている人には、それを悟られてはいけません。

しかもげんこつ団では、2時間1役をやるわけではありません。
1役作り上げるのに、1役の流れを作り上げるのに、稽古時間を費やすわけにはいきません。
げんこつ団では、演技も役者も、作品を作る一つの部品に過ぎません。
まずそれぞれの“役”という部品が必要な形を取り、そっからが、稽古本番です。
はい。それには感覚的なもので取り組むしかありません。
頭と身体を同時に使う回路、自分を客観視しつつ、全体を客観視する回路、
そういったものは、感覚的な事として、自分の中に作れるものです。これはもう、訓練です。
またそれは、うまく嘘をつき続けるのと同じです。観客を騙し続けるのです。
自分自身と掛け離れた、性格、性別、性質の役を舞台で演じるには、
ちょっとした瞬間にも気を抜かず、観客を騙し続ける演技を、徹底してキープし続けるのです。
それは、一瞬でも崩れたら、おじゃんです。

とか。文章で書くとなんだかややこしくて小難しい感じになりますが。
結局のところは、それはなんだか、演技の基本とも言えると思います。
“女だけで老若男女をやっている”という所が特殊なだけで、
“自分自身のキャラクターを決して出さない”という所が特殊なだけで、
あとは意外と(?)基本に忠実(?)。
別段特別なところは何もありません。

まあ、そんな感じで、げんこつ団は演技というものに取り組んでおります。

そのように、“脚本、内容、ネタ重視”“役者は作品を作る一つの部品”というスタンスを取り、
ここでしか観る事の出来ない作品を、常に目指していたりします。
 

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