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さてげんこつ団のだいたいの作品は、
1作品に、20~25個のシーン+10~15個の映像シーンで、構成されています。
その中で役者は、数え切れないくらいの配役を早替りで演じていきます。
なんでそんな面倒臭くて大変な事をしているんだか。
その原因は、一重に私のもともとの、スタンスにありましたとさ。
まず白状しなくてはならないのは、
私、もともと演劇よりも映像をやるつもりだったのです、
演劇は、ちょっとあまり実は、好きではなかったのです、という事で。
そんな私が、例えば自分の書いた脚本を映像化する時には、
中年オヤジには本物を、爺さんには本物を、使おうと思うのが、自然な発想だったのです。
なのになんで芝居という形を始めたか、それは、
映像より金と時間がかからない、人と場所さえあれば、
とりあえずは湧き上がったアイデアや脚本をすぐさま形に出来る、
という利点を、取っちゃったからなのです。
その利点は、とても大きい。
さてでも、そうではあってもやっぱり、
登場人物である中年オヤジは、中年オヤジであって欲しいのです。
誰それさんが演じた役、ではなくて。
いや“誰それさん”なんて、自分の脚本の中には存在していないのです。
むしろ消えてくれ。
そこで、「役者自身のもともとの個性なんて、消せ消せ捨てろ、一切要らねえ。」
ってなスタンスが、生まれてきたわけです。
そこで、「さあ、観ている人を、騙さなくてはいけない、騙そうぜ。」
ってなスタンスが、生まれてきたわけです。
それが、出来るだけ沢山のシーンをやりたい姿勢とあいまって、
クルクル変わるシーンの中で、役者もクルクルと次々に、
色々な役柄を、次々に演じ分けていくという形に、繋がりました。
生身の人間が出ている以上、自然と、
「さっきの人がこの人?」「さっきの人はどの人?」と、
役者自身を追ってしまうであろう観客の目を、とにかくそれで欺くのです。
その内、そんな事はどうでもなっていくまで。
そういった経緯と理由で、げんこつ団では、
一人の役者が老若男女を、演じているわけでございます。
そういえば、自分のもともとの感覚が演劇的ではなく映像的だというのは、
役者個人の個性を出さない事の他にも、
アドリブは言語道断、本番でちょっとの演技も変えない演出絶対主義、にも、
繋がっているのかもしれません。
だって映像は、観客の反応やその日のノリで、変わっちゃったりしないから。
それが良いのか悪いのかは分かりません。
いや、良いとか悪いとか、ないか。色んな舞台があります。
ともあれとりあえず、ここはそう、自分はそう、で、ありたいもんだ。
そんな気持ちは、ぜんぜん変わっておりませぬ。
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