忍者ブログ

GENKOTU-DAN
■→ GENKOTU-DAN OfficialSite ←■
~団長コラム~
こちらは、げんこつ団・団長コラムです。各カテゴリ内に、記事の一覧があります。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

猜疑の美学?

TABAKO.gif

この世の中に、超能力“者”だの霊能力“者”だのは、当然過ぎるほど当然に、存在しない。
断言出来る。存在しません。

確かに世の中には不可思議な事があるが、
もともと不可思議な事があるのが世の中であって、それは、当然過ぎるほど当然の事。特別ではない。

人智を超えたものを感知したり認知する事は、いたって当たり前の、普通の事。特別ではない。
それをある程度“味方”にしたり“敵”にしたりする事は、何ら特別な事ではなく、可能な事。特別ではない。

ただ、その人智を超えた何らかのものに、何らかの“名前”を与えようとするのは、また全く、別の事。
そこには、人智を超えない人間の、色々な思惑や利害が絡む。
またもしもそれの一部が何らかの形で人を介す事があったとしても、
それを超能力だとか霊能力だとか呼ぶのは、少々安易で危険を孕む。

さて、つまり何を言いたいかというと、まず、
「何かよく分からん特別な力が、“特定の個人や集団に宿る”と、ふと、思わされてしまう」、
「上記のような“当然の事”を、ふと、“何か特別な事”だと思わされてしまう」、
そうした個人の感覚や集団の感覚の方が、むしろ“超常的”だという事。それは異様な事。

そこで私の持論は、こうなる。
そうした“異様”に巻き込まれないためには、“当然”と“異様”を、間違えないようにするためには、
いつも猜疑心を持っておくべき。
何故なら、「正しい猜疑心は、清き信仰心の何倍も美しく純粋なもの。」だから。

ここから、人として人の巣である社会で生活する上での話にスケールを合わせる。

共同生活や共同作業をする者の中に生まれる正しい信頼関係は、
「信じるか信じぬか」の思考や言葉を超えて生まれるものであって、
「信じるか信じぬか」をわざわざ問いかけてくるようなモノや、その判断が必要なモノに対しては、
常に猜疑心をもって臨むべき。

「信じるか信じぬか」をわざわざ問うものは、元来その全てが多かれ少なかれ“詐欺的”であり、
しかし社会で機能する全ての個人活動・企業活動・公共活動等々の大半に、その側面がある。
宗教も思想も政治も企業も商品も、その大小に関わらず。なんにでも、かんにでも。
人の世の中の全ての物事が、「信じるか信じぬか」と問うている。

よって、人の世の中においては、全ての物事の何に対しても、100%信じきってはいけない。
もし何かが100%正しいと思ったら、同等の100%で疑ってこそ、
その真の姿や真の価値と、真摯に向き合える。

そう思う。という事。


あ。でも別にそれを哀れんだり批判したり、何かが変わるべきだとは思わない。
もともとそういったもんが、人の世の中なのであって、
そういったもんでない社会は、過去一瞬として、存在した事がない。

それは全然、悲観的な事ではない。むしろ、楽しい事に思う。
 

PR

Comment

お名前
タイトル
E-MAIL
URL
コメント
パスワード

Trackback

この記事にトラックバックする:

Copyright © 団長コラム : All rights reserved

「団長コラム」に掲載されている文章・画像・その他すべての無断転載・無断掲載を禁止します。

TemplateDesign by KARMA7
忍者ブログ [PR]